ふとした瞬間、理由もなく涙があふれてくることはありませんか?
悲しいことがあったわけでも、誰かと衝突したわけでもない。
それなのに、胸の奥がキュッと締めつけられ、どうしようもない寂しさに包まれる。
かつての私も、その理由を探してばかりいました。
「寂しいのだろうか」
「誰かに承認してほしいのだろうか」
しかし、突き詰めていくと、どうやら違うのです。
外側の誰かや、何らかの達成によって埋まるような、そんな単純な寂しさではないのです。
人という存在の境界線
認知科学を学ぶ中で、人は世界を理解するために「私」と「他人」、「内側」と「外側」という境界線を引くことで、自分を認識しているということを知りました。
私たちは常に、その境界線の内側で生きています。
しかし、なぜ人はこれほどまでにつながりを求め、理解し合おうとし、安心できる場所を探し続けるのでしょうか。
それは、単に生存のための本能という言葉だけでは説明がつかない、もっと深い「魂の記憶」のようなものかもしれません。
その寂しさは「欠如」ではなく「回帰」のサイン
この感覚は、子どもの頃に夕暮れの道で感じた、「家に帰るまでの道のりでふと感じる、言いようのない寂しさ」に似ています。
帰るべき場所はあるはずなのに、どこか遠い場所を懐かしむような感覚。
もしかすると、私が抱く寂しさとは、何かが足りないという「欠如のサイン」ではなく、
「忘れてしまった大切な何かを思い出そうとしている心の働き」なのではないでしょうか。
視点を変えると、景色が変わる
ここで少しだけ、頭の片隅に置いておいてほしい「認知科学」の視点をお伝えしますね。
私たちは普段、自分とそれ以外を分ける「境界線」を引いて世界を見ています。
「私」という個人の枠組みの中に、知識や記憶、役割を詰め込んで、「これが自分だ」と思い込んでいる状態です。
けれど、私たちの心には、その境界線を越えて、もっと広い視点で物事を見る「抽象度」という機能が備わっています。
分かりやすく例えるなら、
ずっと地面を這いつくばって歩いていると、目の前の小さな石ころ(日常の悩みや寂しさ)が巨大な壁に見えてしまいますよね。
でも、ふと空高くから俯瞰(ふかん)して地上を見たとき、その壁は実はただの通り道だったことに気づく。
これが「抽象度を上げる」ということです。
今感じているその寂しさは、無意識のうちに、今の狭い枠組みから抜け出して、もっと広い視点で自分を見つめようとしている「心の成長痛」のようなものかもしれません。
寂しさを「敵」にしない
かつての私は、こうした感情を「正すべきもの」「消すべきもの」だと考えていました。
しかし、今はそう思っていません。
寂しいなら、寂しいままでいい。
涙が出るなら、ただ流せばいい。
無理に埋めようとしたり、前向きに変換しようとせず、寂しさをそのまま見つめていると、
それが敵ではなく、「本当の自分へと続く地図」であることに気づかされます。
私たちは、どこか別の場所に救いを求めているのではなく、最初から知っていたはずの自分自身を、思い出そうとしているだけなのかもしれません。
最後に
「本当の自分とは何だろう」
「なぜ私たちは生きづらさを感じるのか」。
私は氣幸師として、認知科学の視点から、現代気功を用いた心の仕組みを探究しています。
日常生活のささやかな気づきを、メルマガで丁寧にお届けしています。
もしあなたが、「今の自分ではない何か」の正体を知りたいと感じているなら、ぜひ一度のぞいてみてください。
氣幸という名の、小さな魔法で、あなたの心に光を灯せますように💫
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